2017年04月08日

映画レビュー 「ムーンライト」 バリー・ジェンキンス監督

MOONLIGHT

あの「ラ・ラ・ランド」を抑えて(しかも例のハプニング付きで)第89回アカデミー作品賞を獲得した映画である。うーん,こういう映画が「ラ・ラ・ランド」を凌駕したのか。

舞台はフロリダ州マイアミ。ヤクの売人フアン(マハーシャラ・アリ)が縄張りを廻る。扱っているのはヤクだが,部下の売人に家族の様子を聞いて気にかけたりして慕われている。通りの向うを一団の少年たちが駆け抜けて行く。先頭を行く小柄な子供(アレックス・ヒバート)を他の数人が追いかけている。「オカマ!」という罵声が聞こえる。

フアンがヤクの隠し場所である廃屋に行くと,そこにさっきの子供が一人で隠れている。名前を聞いても住所を聞いてもかたくなに口を閉ざす子供をフアンは自宅に連れ帰り,妻テレサ(ジャネール・モネイ)の手料理を食べさせる。ようやく話し始める少年の名前はシャロン,だが学校では「リトル」と呼ばれている。「『オカマ』って何?」。シャロンにそう訊ねられたフアンは「それはゲイを不快にさせる言葉だ」と答える。「たとえゲイでもそう呼ばせるな」と。

やがてフアンはシャロンの母親ポーラ(ナオミ・ハリス)が自分の手下の客であり,ヤクに溺れてほとんど母親らしいことをしていないことを知る。ポーラにヤクを辞めさせることができない彼はテレサと二人シャロンの親代わりになろうとする。海に連れていって泳ぎを教え,故郷キューバの話をする。黒人の子供は月明かりの下で青く光る。自分の道を他人に決めさせるな。

暗転。

時は流れシャロン(アシュトン・サンダース)は高校生になっている。背丈は伸びたのでもう「リトル」ではないが,やせっぽっちと内向的な性格が災いしていまだに苛めの標的だ。ポーラはヤクから抜け出せておらず,家にいたたまれないとき彼は未亡人となっているテレサのところへ行く。テレサと,子供の頃から一人だけ彼を苛めなかった親友ケヴィン(ジャハール・ジェローム)だけが彼のシェルターだった。

テレサがくれたなけなしの生活費をポーラに奪われ行き場を無くした夜,フアンと泳いだ海にやってきたシャロンは彼を見かけてやってきたケヴィンに初めて自信の悲しみと辛さを打ち明ける。が,心を通わせあった数日後,不良達の圧力に屈したケヴィンは彼らにけしかけられてシャロンを殴ってしまう。心身ともに傷ついたシャロンは事件の首謀者の少年を椅子でたたきのめして逮捕される。

暗転。

ジョージア州アトランタ。すっかり大人になったシャロン(トレバンテ・ローズ)はここでブラックと呼ばれるマッチョな身体の売人になっている。母親のポーラは再三戻ってこいと電話を寄越すがそのたびに生返事を繰り返す。そんな彼にある日,あのケヴィン(アンドレ・ホランド)から電話が。ケヴィンは言う。「あの時のことを謝りたい…」。これを受けてシャロンはマイアミ行きを決意する…。

「行間」の映画である。「余韻」の映画と言ってもいい。余計な説明をしない。いや,ひょっとすると「必要だ」と思うヒトも多かろう説明をしない。そういう意味ではとても非ハリウッド的な作り,全然似ていないのに小津安二郎作品みたいな印象が残る。キャスト全員が黒人も映画としてこの映画がアカデミーの作品賞を獲得したことは,なんというか「オバマ時代」の最後の栄光かも知れないな。


「ムーンライト」公式サイト
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2017年03月26日

映画レビュー 「お嬢さん」 パク・チャヌク監督

お嬢さん
原作であるサラ・ウォーターズの小説「荊(イバラ)の城」を読んだのは2005年のことである。19世紀英国を舞台にしたディケンズの「オリバー・ツイスト」みたいな雰囲気の話だ。当時の日記には「伏線わんさか,刮目の展開,そして衝撃の結末。なんつうか実に『正統派の19世紀風冒険活劇ただし主人公は女性です』という感じ」だ,と書いている。

2年後の2007年,BBCが若手女性監督エイスリング・ウォルシュを起用して前後編(計181分)のテレビドラマに仕立てた。あの長大な原作をこの尺に収めただけでも見事なのに,俳優たちの体当たりの演技,テレビでやれるギリギリであろうエロチシズム表現。さすがはBBCだぜと思わざるを得ない出来だった。

ほんで今回の韓国版である。舞台は日本占領時代1939年の韓国,日中戦争はだらだらと続いているものの市井の暮らしはそれほど逼迫したものではない都市の一角。幼い頃から掏摸として育てられたスッキ(キム・テリ)に,名うての詐欺師(ハ・ジョンウ)から仕事のオファーが来る。

郊外の巨大な屋敷に膨大な蔵書と共に暮らす上月(チョ・ジヌン)という男がいる。日本に帰化し事業を興して成功した男で,引退後はこの屋敷に住んでいる。そこには彼の義理の姪にあたる秀子(キム・ミニ)という令嬢が同居しており,この秀子と結婚する相手は彼女に遺された莫大な信託財産を手に入れることができる。

詐欺師の依頼は,この屋敷に秀子つきのメイドとして潜り込み,伯爵という触れ込みで屋敷を訪れる自分が秀子を誘惑する手伝いをしろ,というもの。屋敷を逃れて日本に行き,結婚の手続きをしたら秀子は気が触れたことにして癲狂院に放り込んでしまえばいい。お前にもたんまり分け前をやる…と。

まぁそういうわけでストーリーはほぼ原作通り。原作読んだヒトは知ってる通りそれだけでも充分面白いわけなんだが,実はこの映画にはもうひとつプラス・アルファがあるんである。

唐突に話を変えるけど皆さん,オレは,ある言語がそのヒトにとってネイティブかどうかは淫語に対する反応で判断できると思ってる。

わかりにくいか。つまりね,オレ等ってたとえば女性器や男性器の俗称(膣とか陰茎とかぢゃない下世話な言葉ね)の日本語を口にするとき,それの外国語とはあきらかに違う感情に襲われるぢゃないの。あれって他の言語を母語とするヒト達もたぶん同じだと思うわけ。

実はこの映画の中で,秀子は上月の指導の元,彼のコレクションである猥本を朗読させられる。それを邸を訪れるコレクター達に聴かせて本を買わせる,という戦略だと説明されるのだが,なんのことはない変態爺である上月の趣味だ。で,このシーンがなんつかすごいのだ。

役の上では日本人だが実際にはコリアンであるキム・ミニはそれらの淫語を眉一つ動かさずに読める。いや一応設定上ではそうではなく,性についてなんの知識も与えられないまま純粋に朗読だけを教えられたからそうできるのかも知れないが,キム・ミニの口から聞こえてくる日本語は我々ネイティブにとっては明らかに「非ネイティブの日本語」である。

とね。たぶん,このシーンで我々が味わうものは,おそらく世界中で日本人だけが感じるものなのだ。韓国人である監督のパク・チャヌクがそこまで計算してこのシーンを撮ったのかどうか定かではないのだが(つうか計算してたら悪魔か,と思わぬでもないが),この映像,音声が自分の内面に励起するものを味わうだけでもこの映画は観に行く価値があるよ。ホント。


「お嬢さん」公式サイト
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2017年03月05日

映画レビュー 「ラ・ラ・ランド」 デミアン・チャゼル監督

ラ・ラ・ランド
なんだかかなり毀誉褒貶あるみたいだが,オレはこの映画ひょっとすると「ミュージカル映画」というものの新しい地平を開くかも知れないと思ったのである。説明が必要か。

ご存知のようにミュージカル映画というものは名作「雨に唄えば」など一部の例外を除き,ブロードウェイなどでミュージカルとして演じられ成功したものを『映画化』したものである。古くは「オズの魔法使い」から「サウンド・オブ・ミュージック」,「マイ・フェア・レディ」。近くは「オペラ座の怪人」,「レ・ミゼラブル」みんなそうだ。

なかには「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」みたいに,まず普通の映画として作られ(1961年),それをもとにしてハワード・アッシュマンとアラン・メンケンが1982年にミュージカルに仕立てて上演。これが当たったので1986年に「ミュージカル映画」としてリメークされたなんてのも。ついでに言うと1961年の映画には若い頃のジャック・ニコルソンが出てる。面白いよ。

で,元が舞台のものはもちろん,最初から映画であり映画界の話である「雨に唄えば」でさえ(未見のヒトのためにちょっとだけ明かすとこれは「ミュージカル映画を作る」というミュージカル映画なのね),その出自である「舞台としてのミュージカル」の頚木から自由でなかった,と思う。

もちろん「映画なんだから」と頑張った作品もあった。「マイ・フェア・レディ」の競馬場とか「オペラ座の怪人」の墓地とか。舞台の制約を離れ映画ならではの空間的広がりを演出しようという試みは,あった。けど,オレの記憶ではたしか,そこでは芝居は行われても歌と踊りは始まらなかった,と思うのだ。

この映画は違う。最初から「ミュージカルではなくミュージカル映画」として企画され,脚本が練られ,絵コンテが起こされ(もちろんコンピュータ・グラフィックスを駆使しての)撮影が行われているため,空間に,そして時間にも制約がないのだ。

冒頭のハイウェイでのモブ・ダンスで「ひょっとしてそういう映画なのか?」と思い,続くパーティのシーン(ダンサーが次々とプールに飛び込む。しかも水中にカメラが)で「たぶんそうだ」と。そして主役の男女がこともあろうにミュージカル映画のなかでミュージカルでもない映画(「理由なき反攻」)を観に行ってしまうに及んで確信に変わった。

オハナシは別に目新しくない男女の出会いと別れなのでここでアラスジを追う必要もあるまい。そのオハナシが古くさいとか,ダンスの出来がどうだとか,主人公の音楽のセンスが云々とか,そういうのは瑣末なことだ。ひょっとしたらデミアン・チャゼルのこれは「ミュージカル映画の再発明」なのかも知れないんだから。

で,これにブロードウェイはどう逆襲するんだろ。楽しみだなぁ。


「ラ・ラ・ランド」公式サイト


※ 上のように書いてましたがあのハイウェイのシーンを含めほとんどCGはないんだそうで仰天しながら訂正させていただきます。
posted by hiro fujimoto at 13:46| Comment(0) | 映画