2016年10月19日

ブックレビュー 「危険な純粋さ」 ベルナール=アンリ・レヴィ著

危険な純粋さ
フランスの「新哲学派」,ベルナール=アンリ・レヴィが「コミュニズム敗北後の世界」について書いた評論である。うーん,1994年にこんな本が書かれていたのか(邦訳が出版されたのは1996年)。ちっとも知らなかった。

1989年11月「ベルリンの壁」が崩壊した。オレも覚えているが,この日の報道は凄かった。どこのクニもどんなニュース番組も,なんだか明日から世界が俄然良くなるようなことを声裏返して喚き散らしてたもんだ。実際,この事件をきっかけに東側各国の社会主義政権,共産主義政権は雪崩を打って崩壊した。ブルガリア,チェコスロバキア,ユーゴスラビア,ルーマニア…。そして1991年には彼らの盟主たるソヴィエト連邦も解体され,世界中にコミュニズム国家は数えるほどに。中華人民共和国,キューバ共和国,ベトナム社会主義共和国。ラオス人民民主共和国,朝鮮民主主義人民共和国…他にどっかあったっけ?

しかし,あの日西側の,自由主義陣営の,民主主義体制下にある人々が夢見たような「明日」は来なかった。共産主義の抑圧から解き放たれた人々は,我々と手を携えて平和で民主的な社会を再構築しようとなんてしなかった。ルーマニアではジプシー狩りが始まり,ロシアではユダヤ人が排斥された。ユーゴスラビア解体の動きの中で独立したボスニア・ヘルツェゴビナでは民族間の対立が内戦となった。共産国家の民は,解放されると民主主義者にならずにナショナリストに,ポピュリストに,そしてファシストになった。

他方,コミュニズムはあらゆる宗教も抑圧していた。共産党支配から脱し,自由社会的な「信教の自由」を勝ち取った人々はそれを謳歌したか。否。自由になった彼らは,共産主義体制下で肩を寄せ合っていた異教徒を排撃にかかった。数十年に渡って冷凍保存されていた種子が発芽するように,突如沸き起こった宗教的熱情がお互いに対する嫌悪を増幅し,昨日までパンやスープを分け合っていた異教徒の間に深い溝が刻まれた。コミュニズム崩壊がもたらした「自由」はまるで「聖戦を遂行する自由」であるかのごとくだった。

なぜこんなことになったのか。フランシス・フクヤマに代表される「歴史の終焉」論者たちは言っていたではないか。コミュニズムは民主主義に挑戦し得る最後の大制度だった。それが敗れ去った今,我々は人類発展の終着点に至ったのだと。遅かれ早かれ世界中が「米国式生活スタイル」に染まっていくのだ,と。レヴィは言う。ご存知の通りそうはならなかった,「歴史の終焉」論は間違っていた,フランシス・フクヤマは間違っていたのだよ。

どう間違っていたのか。レヴィの立論はこうだ。まず,コミュニズムというもの正体がなんであったのか。喝破する。コミュニズムとは「人間は善良である,少なくとも善良になりうる」という信念に基づいた,理想社会の希求である。オレも子供のころ「倫理・社会」の授業で教わった。万人が必要なものを必要なだけ支給される社会,なぜそれが可能かと言えば,万人がその理想実現のための奉仕をいとわないから…いとうってば,と思ったけどねコドモゴコロに。

ここらあたりからレヴィの論理はウルトラF,シライ・グエン的展開を見せる。すなわち,コミュニズムの正体というのは「原理主義」なんだと。「人間はもともと善良で無私だ,それをそうでなくしているものを片端から攻撃し,排除していけば,人間は善良で無私な元の姿に戻る」という論理のもと,私有財産を否定し,個人の個性を否定し,知識・文化を否定する。このくだり読んで,なるほどクメール・ルージュの虐殺の論理はこれだったんだなと腑に落ちましたよ。

そして現在の混乱はつまり,コミュニズムが担っていた「大きな原理」が雲散したために,これまでそれに無理矢理収斂させられていた無数の「原理主義」が,それぞれのベクトルに向けててんでに放散をはじめたのだ,と。この「原理への熱情」をレヴィは「純粋さへの意志」と呼ぶ。コミュニズムにおける「人間の善良さ」のように,原理主義というのは常になんらかの「純粋さ」を希求するのだ,そしてそれは本書の題名に掲げた「危険な純粋さ」なんである,と。

なるほど,ナチスがアーリア人の純血を求めたのも,イスラム原理主義がコーランを唯一の書物として他のすべてを不純・不要な存在とするのも,キリスト教右派が進化論を目の敵にするのも,ルワンダでフチがツチを「穢れたもの」として虐殺したのも,みんなみんな原理主義的「純粋さの追求」だったのか…。思いあたった。新大久保界隈で在日朝鮮人の排除を叫ぶヘイトスピーチャーたちもつまりは原理主義者なんだな。

…と,ここまでの分析はまことに納得のいくものなんだが,本書後半で展開される「ほんではそれに対抗するために『民主主義』側はどうするべきか」という論議はいささか期待外れ。つうかさ,レヴィは「民主主義」を「共産主義」の対立概念として扱っていた前提をそのまま敷延して「原理主義」と「民主主義」の二項対立的図式を描くんだけど,それが「民主主義の純粋さのために原理主義を排除するというなんだかとっても原理主義的な議論」に滑ってくことに無自覚みたいなんだよね。

ともあれ,1994年という段階で,コミュニズム崩壊後の社会の問題をこれだけキチンと分析した論考があった,ほんでそれを知らなかった,というのはなんか悔しい。その段階でオレがこれを読んでたら,まだマンハッタンにワールド・トレード・センターが建ってたぜ,なんてことは金輪際,ありゃしないにしても。

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posted by hiro fujimoto at 07:47| Comment(0) |
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