2016年08月04日

ブックレビュー 「豊臣大坂城 秀吉の築城・秀頼の平和・家康の攻略」 笠谷和比古・黒田慶一著

豊臣大坂城
なぜわざわざ「豊臣大坂城」と「豊臣」をつけるのか。それは当然,最初の,秀吉の建てた大坂城は夏の陣で炎上しており,その後の大坂城は徳川氏の手によって再建されたものであり,寛文5年の落雷による消失以来,実に290年の時を経て昭和6年に再建された現在の天守閣も基本的にこの「徳川の縄張り」を踏襲しているからである。

本書はその徳川の縄張りの下に埋もれた「豊臣の大坂城」の発掘に長く関わってきた城郭史家の黒田先生と日本近世学の泰斗である笠谷先生が,考古学を縦糸,歴史学を横糸にして編み上げた「豊臣大坂城滅亡の真実」である。「プリンセストヨトミ」に出てくる地下道はやっぱりなかったが,それでもいろいろ吃驚すること満載なのだ。

まず「おう」となったのはあの「真田丸」の正確な位置。有名な「真田の抜け穴」があるんだから真田山三光神社がそうだと思ってるヒトが多いが(オレはそれすら知りませんでした)あの穴はどうも徳川方が城攻めのために掘ったものらしく,合戦の様子を描いた屏風絵などから観るとこの神社の西の大阪明星中学・高校のあたりが有力だという。そうかそうか。

歴史学の方からもとんでもない目ウロコ話が。確かオレなんかが履修した日本史の流れでは「天下分目の関ヶ原の戦」で勝った徳川方は江戸幕府を開いて天下人としての実権を豊臣家から奪い取った。破れた豊臣方の宗家,豊臣秀頼は65万石の一大名に転落し…となってた,よね? おおざっぱに言ってそれが安土桃山時代の終わり,江戸時代の始まりですよ。でしょ?

それではなぜ大阪冬の陣,夏の陣が必要だったのか。

ここで笠谷先生はおっしゃる。関ヶ原の戦から大坂冬の陣までの10数年は,巷間思われているような徳川興隆,豊臣凋落の時代ではなく,東・徳川,西・豊臣といういわば二重公儀体制だったんだと。家康は一応,征夷大将軍として武家を束ねる棟梁であったけど,秀頼には「武家」を超える官位である「関白」の就任が,既得権として担保されていたってわけ。

そして,当初はこの二重公儀体制を是としていたと見える家康が,何故突如として豊臣殲滅に舵を切ったのか。…ここは是非ご自分でお読みくだされ。面白いよ。

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2016年08月03日のつぶやき










posted by hiro fujimoto at 00:01| Comment(0) | 日記